堂々と信念を主張して世に問えばいいのですよ

教員の質の劣化は、最近になって著しいですが、

とうとう学校が管理しなければいけないところにまで来たという現実に、

身内が教育に従事していた者として実に情けない。

しかし世の常として、結果には原因というものが必ず存在します。

それをいくつかあげたいと存じます:

①教育委員会の事勿れ主義

教員採用テストでは、普通成績上位者から面接対象に選ばれる。

ペーパーテストで優秀だったものが、優秀な教員になれるとは限らない。

そこで面接試験がある訳だが、口頭試問の内容が

これまた順法精神なり協調性の有無についてに集中し、

模範的回答をしたものが採用される傾向が強いこと。

①教育現場の事勿れ主義

学校現場では「問題が起きないこと」または「問題を起こさないこと」が

何よりも重要視されるため、

校内で起きたことを極力外部に漏らさないことに校長は心を砕く。

保護者に対する異常なまでの警戒心も、ここに芽生える。

③予定調和の原則

学校では「無条件な調和」「みんな仲良し」を生徒に強要するため、

「問題が起きないこと」が最上とされる。

しかし学校内、クラス内で「問題が起きないこと自体が異常である」という認識がない。

この閉ざされた空間では「問題を解決する能力」よりも

「問題を起こさない」あるいは「問題を問題として見ない」能力、

つまり「鈍感」と「無神経」が要求される。

④業務のブラック化

教員の雑用は多い。

このブラック化を見ている若者が、採用試験を受けたがらず、

それに伴って優秀な人材が集まらなくなった。

従って組織的な動脈硬化、教育者としての劣化が加速度的に進んでいる。

⑤行き過ぎた「人権」とポリティカルコレクトネス

実はこれがいちばんの問題点である。

少々キツイ指導であっても、言葉尻を捕らえてモンペは針小棒大に騒ぎ立てるし、

無敵のマスコミは、面白おかしくバラエティ報道に走り、

軽薄な世論をいち早く作ってしまう。

片言隻句を捕らえられた学校には、反論する機会さえ与えられない。

かくして、お役所的な答弁「今後二度と致しません」しか出てこない。

現場教師たちは、こうして「見て見ぬふり」の達人と化していくわけだ。

こんな体たらくを目にする若者が、果たして教師を希望するだろうか?

実際、身内が経験したことが一つあります。

教室の掃除は班のローテーションで行うのが普通ですが、

必ずサボる子がいました。

度重なるので、帰ろうとする彼女を呼び留めて注意したら、

すると彼女は「バイトあるもん」と答えます。

なので、「キミはそうやって育ってきたの?親の顔が見たいね」

と言ってやったそうです。

予想通りその晩、親から校長室に電話があり、校長に呼び出されました。

電話で母親は「うちの子を侮辱したそうですね」と。

「ああ、親の顔が見たいって言ったことですか?確かに言いましたよ。

お母さんは班が掃除をしていても、自分の都合を優先しろと

お嬢さんに指導しておられるのですか?

だから『親の顔が見たい』って言ったんですよ」と。

そのあと、母親は「公明党の府会議員を知ってるから、問題にしてもらう」

と息巻いていました。

それからずいぶん経ちましたが、別に何ごともありませんでした。

つまり、何が言いたいのかというと、

ことが起きてからの学校側の対応が問題なのです。

確固たる教育方針で学校を運営しているという自信があるのなら、

相手がマスコミであろうがモンペであろうが、

行き過ぎた指導は別として、堂々と信念を主張して世に問えばいいのですよ。

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